ディープフェイクでビデオ会議の全員を偽装 ― 英Arupから2,560万ドルを詐取した事件の教訓
2024年1月、英設計大手Arupの香港オフィスで、CFOや同僚全員をディープフェイクで偽装したビデオ会議により2,560万ドル(約38億円)が詐取された。2026年6月時点で犯人は未特定、資金も未回収のままだ。

目次
3行まとめ
- 2024年1月、英設計大手Arupの香港オフィスで、CFOを含む会議参加者全員がディープフェイクで偽装されたビデオ会議が行われた
- 従業員が会議の指示に従い15回の送金を実行し、合計2,560万ドル(HK$2億)が1日で詐取された
- 2026年6月時点で香港警察の捜査は継続中だが、逮捕者なし、資金も未回収
Arupが受けた詐欺の手口
Security BoulevardおよびAdaptive Securityの報道によると、2024年1月、ロンドンに本社を置く多国籍エンジニアリング企業Arupの香港オフィスで大規模なディープフェイク詐欺が発生した。
攻撃の手口は以下の通りだ。まず、CFOを装ったスピアフィッシングメールが送られた。次に、ビデオ会議が設定され、参加していた上級管理職全員がAI生成のディープフェイクだった。従業員はこの会議の指示に従い、1日で15回の送金を実行。合計**2,560万ドル(HK$2億、約38億円)**が詐取された。
Adaptive Securityの分析によると、根本原因はディープフェイク技術だけではない。数百万ドル規模の送金がビデオ会議の指示だけで実行でき、発注書や内部承認チケットとの照合が行われなかったという内部統制の不備が被害を拡大させた。
2026年6月時点で、香港警察の捜査は継続中だが、逮捕者はなく、資金も回収されていない。
日本でのディープフェイク関連事件
Cybernewsの報道によると、東京警視庁は札幌在住の千葉哲郎容疑者(31歳)を、生成AIを使って芸能人のディープフェイク画像50万枚以上を作成・販売した容疑で逮捕した。こちらは金融詐欺ではなくディープフェイクポルノの事案であり、犯罪カテゴリは異なるが、生成AIの悪用という共通点がある。
香港政府の答弁では、ビデオ会議は「録画済み」だったとされている
この事件については、香港特別行政区政府の保安局長・鄧炳強(Tang Ping-keung)氏が2024年6月26日の立法会で書面答弁を出しており、香港警察の見立てが公文書として残っている。企業名は伏せられているが、発生時期・被害額・手口が一致する。
答弁が説明する2024年1月末の事案は次の通りだ(原文は英語、訳と要約は当サイト)。
- 通報者は、英国本社のCFOを装った人物からフィッシングメールを受け取り、「機密の取引」を名目にグループビデオ会議へ招待された
- 指示に従い、5つの現地銀行口座への送金を承認し、約HK$2億の損失を被った
- 捜査の結果、警察は当該ビデオ会議がオンライン上の公開動画と音声を素材として生成された「録画済み(pre-recorded)」のものだったと判断している
答弁の原文はこう書いている。
"Since the meeting was pre-recorded, there was actually no interaction between the informant and the fraudster. After making the instruction to the informant, the fraudster ended the meeting under some pretext and then continued with the payment transfer instructions using instant messaging software."
(会議は録画済みだったため、通報者と詐欺犯の間に実際のやり取りはなかった。指示を出した後、詐欺犯は口実を設けて会議を終了させ、その後はインスタントメッセージソフトで送金指示を継続した。)
一般に流通している「リアルタイムで全員を偽装し、対話しながら騙した」という説明と、香港警察の見立ては同じではない。警察の説明が正しければ、決定的だったのは会議そのものではなく、会議で作られた信用を土台に、その後チャットで送金指示が続いたという流れになる。
同じ答弁によれば、香港警察が2023年からディープフェイク関連詐欺として個別に統計を取り始めて以降、2024年5月31日時点で受理したのは3件である。
| 発生時期 | 手口 | 関与した金額 | 状況(2024年5月31日時点) |
|---|---|---|---|
| 2023年8月 | AI顔交換プログラムで他人になりすまし、金融会社へオンラインで借入を申し込み | 約HK$20万 | 検挙済み。作戦名「Smashscam」で主犯を含む9人を逮捕 |
| 2024年1月末 | 英国本社CFOを装うフィッシングメール → グループビデオ会議 → 5つの現地口座へ送金 | 約HK$2億 | 捜査中 |
| 2024年5月20日 | 英国本社CFOを装うWhatsAppメッセージ → 約30分のビデオ会議で「偽の上司」が指示 | 約HK$400万 | 捜査中 |
2024年5月20日の事案は、多国籍貿易企業の職員が標的になったもので、これも英国本社CFOの偽装だ。同じ型が4か月後に再現されている。
なお、香港警務處が公表している直近の犯罪統計では、詐欺(Deception)の認知件数は2025年1〜6月の20,760件に対し、2026年1〜6月は20,613件(147件減、-0.7%)である。ディープフェイク詐欺だけを切り出した最新の公表値は確認できなかった。
Arupは何を認め、何を否定したか
Arup自身は2024年5月、被害企業であることを認める声明を出している。The Architects' Journal(2024年5月20日)とConstruction Management(2024年5月21日)が引用した同社の声明は次の通りだ。
"Our financial stability and business operations were not affected and none of our internal systems were compromised."
(当社の財務的安定性と事業運営に影響はなく、社内システムが侵害されたものもない。)
つまりArupが認めたのは「詐欺の被害に遭ったこと」であり、声明が明示的に否定しているのは**社内システムの侵害("none of our internal systems were compromised")**である。情報漏えいの有無について、この声明は触れていない。これは技術的なハッキングではなく、人と手続きを突いた攻撃だった、という位置づけになる。
同社のグローバルCIOロブ・グレイグ(Rob Greig)氏のコメントも記録されている。
"Like many other businesses around the globe, our operations are subject to regular attacks, including invoice fraud, phishing scams, WhatsApp voice spoofing and deepfakes."
(世界中の多くの企業と同様に、当社の業務は請求書詐欺、フィッシング、WhatsAppの音声なりすまし、ディープフェイクを含む攻撃を日常的に受けている。)
Construction Managementはさらに、グレイグ氏の「これらの攻撃の件数と巧妙さは、ここ数か月で急激に増加している("the number and sophistication of these attacks has been rising sharply in recent months")」という発言を伝えている。
一方で、Arupは送金を実行した従業員の詳細、社内の承認フローがどうなっていたか、事件後に何を変えたかについては、上記の声明では説明していない。「内部統制の不備が被害を拡大させた」という分析は、Arup自身が認めた事実ではなく、外部の分析側の解釈である点は区別しておきたい。
AIの関与が申告されたBEC被害は、BEC被害全体の1%程度にとどまる
この事件は「AIによる新種の詐欺」として語られやすいが、FBIの分類では**BEC(ビジネスメール詐欺)**である。FBIのインターネット犯罪苦情センター(IC3)は、年次報告書のBEC定義そのものを、ビデオ会議を含む形で書いている。
"These sophisticated scams are carried out by fraudsters by compromising email accounts and other forms of communication such as phone numbers and virtual meeting applications, through social engineering or computer intrusion techniques to conduct unauthorized transfer of funds."
(これらの巧妙な詐欺は、メールアカウントや、電話番号・バーチャル会議アプリといった他の通信手段を、ソーシャルエンジニアリングまたはコンピュータ侵入の技法で侵害し、不正な送金を行わせるものである。)
IC3の年次報告書が公表しているBECの申告件数と被害額は以下の通り(金額は米国の申告ベース、調整後損失)。
| 年 | BEC申告件数 | BEC被害額 |
|---|---|---|
| 2023年 | 21,489件 | $2,946,830,270 |
| 2024年 | 21,442件 | $2,770,151,146 |
| 2025年 | 24,768件 | $3,046,598,558 |
2025年報告書は、AIへの言及を含む申告を「AI Related」として別集計しており、その件数は22,364件、被害額は$893,346,472だった。2024年報告書のCrime Type/Descriptor集計にはこの「AI Related」の項目自体が存在しない(Descriptorとして掲載されているのはCryptocurrencyのみ)ため、この分類は2025年報告書で新設されたとみられる。ただし2023年以前の報告書までは確認できておらず、報告書自身も「初めて」とは書いていない。IC3全体では2025年に1,008,597件(2024年は859,532件)、約$208.77億の損失が申告された。報告書が明記する「26%増」は損失額の対前年増加率であり("1,008,597 complaints; $20.877 billion in losses; 26% increase in losses from 2024")、申告件数の増加率は1,008,597件÷859,532件で計算すると約17.3%増となる。
ここで注意したいのが、AIが絡むBECの規模だ。同報告書はこう書いている。
"In 2025, businesses reported losses over $30 million to BEC scams involving AI."
(2025年、企業はAIが関与するBEC詐欺で3,000万ドルを超える損失を申告した。)
同じ2025年報告書の「AI References by Complaint Loss」表には、BECのAI関連損失として**$30,256,592**という確定値が示されている。BEC被害額全体(2025年、$3,046,598,558=約$30.47億)に対する比率で計算すると、**AIが関与すると申告されたBECは、金額ベースで約0.99%(1%弱)**という計算になる。ディープフェイクは目を引くが、BECで動いている金の大部分は、いまも「AIの関与が申告されていない」経路を通っている。この事件を「ディープフェイクの問題」として閉じてしまうと、対策の焦点がずれる可能性がある。
ただしこの数字は下限として読むべきだ。IC3は「AI Related」を「申告内容にAIへの言及が含まれるもの("Information reported contains a reference to artificial intelligence (AI)")」と定義しており、被害者がAIの関与に気づいていなければ計上されない。報告書自身も投資詐欺について「多くの被害者はAIがどの程度関与しているか認識していない」と注記している。
送金前の確認手順を、公的機関はどう書いているか
「送金前に別チャネルで確認する」といった対策は、分析ブログの提案ではなく、公的機関の文書に書かれている内容だ。一次資料から4点引く。
FBI IC3(Alert Number I-091124-PSA、2024年9月11日) — このPSAは、2013年10月から2023年12月までにIC3が把握したBECの被害を305,033件・$55,499,915,582と集計している。推奨事項の筆頭は次の通り。
"Use secondary channels and/or two-factor authentication to verify requests for changes in account information."
(口座情報の変更依頼を確認するには、別の連絡経路および/または二要素認証を使うこと。)
FBI IC3(Alert Number I-120324-PSA、2024年12月3日) — 生成AIを使った金融詐欺に特化したPSA。手口として「実在の企業幹部や法執行機関の人物を装い、リアルタイムのビデオ通話用に動画を生成する」ことを挙げたうえで、防御策として次を挙げている。
"Verify the identity of the person calling you by hanging up the phone, researching the contact of the bank or organization purporting to call you, and call the phone number directly."
(かかってきた電話をいったん切り、名乗っている銀行や組織の連絡先を自分で調べ、その番号に直接かけ直して相手の身元を確認すること。)
同PSAは、合成メディアの見分け方として「手足の歪み、不自然な歯や目、輪郭が不明瞭または不規則な顔、不自然な眼鏡やアクセサリー、影の不整合、遅延、声の不一致、不自然な動き」を挙げている。
香港警察 — 前述の立法会答弁の中で、警察自身が市民向けの確認方法を4点挙げている。①相手に画面の前で首を上下左右に動かすよう頼み、映像に異常が出ないか観察する ②会話の内容で相手の真正性を試す ③映像や音声で送金を求められたら、電話で確認する ④心当たりのないビデオ通話には応答せず、疑わしい場合は詐欺情報検索ツール「Scameter」や対策ホットライン18222を使う。
IPA(独立行政法人情報処理推進機構) — 「ビジネスメール詐欺の対策について知る」(最終更新日:2022年9月28日)は、「電信送金に関する社内規程の整備(チェック体制の整備)」の項目でこう書いている。
急な振込先や決済手段の変更等が発生した場合、取引先へメール以外の方法で確認する
同ページは冒頭で、BECが「システムやセキュリティソフトによる機械的な防御、偽メールの排除が難しい」手口であり、まず職員に手口を知ってもらう必要があると述べている。ここから当サイトが引き出す解釈として、Arupの事案でCIOが「社内システムは侵害されていない」と言えたことと、被害が防げなかったことが両立するのは、この性質によると考えられる。ただしこれはIPAの記述からの当サイトの推論であり、IPAやArupが明示的にそう説明しているわけではない。
音声クローンを使った個人向けの手口と対策は、AI音声クローン詐欺の手口と対策をまとめた記事で扱っている。
報道と香港政府の答弁で食い違う点
- Arup事件は2024年1月の事案であり、新しいニュースではない。ただし、ディープフェイク詐欺の規模と手法を示す代表的な事例として2026年時点でも頻繁に引用されている
- 使用されたディープフェイク技術の具体的な種類やツールは公開されていない
- ドル換算額は報道時点のレートに基づく概算値
- 日本の逮捕事案はディープフェイクポルノであり、金融詐欺とは性質が異なる
- 香港政府の答弁は企業名を明かしていない。時期・被害額・英国本社CFOの偽装という一致から同一事案と判断したが、政府が「Arupの事案である」と名指ししたわけではない
- 「15回の送金」は報道由来の数字で、香港政府の答弁には回数の記載がない。答弁が明記しているのは送金先が5つの現地銀行口座だったことである
- 「会議参加者全員がリアルタイムのディープフェイクだった」という記述と、香港警察の「録画済みで対話はなかった」という見立ては食い違っている。当サイトは既存の報道記述を残したうえで、公文書の記述を併記する形をとった。どちらが正確かは、当サイトでは判定できない
- 捜査状況について一次資料で確認できたのは**2024年5月31日時点で「捜査中」**という点までである。2026年時点で逮捕者ゼロ・資金未回収という状態が続いているかどうかを、公的な発表では確認できていない
- Arupの声明本文は、The Architects' JournalとConstruction Managementが引用した形で読んだ。Arupの公式サイト、Financial Times、The Guardian、CNN、世界経済フォーラムの各ページは、当方の環境からアクセスできず(403/451)、原文には直接当たれていない
- FBI IC3の被害額は米国への申告ベースであり、世界全体の被害額ではない。香港の事案は含まれない
- IPAの記述は取引先との送金トラブルを念頭に置いたもので、社内の上長を装う今回の型を直接対象にしたものではない
- 「AI Related」という分類が2025年報告書で新設されたものかどうかは、2024年報告書に同項目が無いことまでは確認したが、2023年以前の報告書は確認していない。したがって「初めて」という断定はできない
- BECのAI関連損失率(約0.99%)は、IC3報告書が掲載する2つの確定値(BEC全体$3,046,598,558、BECのAI関連損失$30,256,592)から当サイトが計算したものであり、報告書自身がこの比率を明記しているわけではない
参照した報道と一次資料
本記事は2026年6月18日時点の情報に基づく。Arup事件の詳細はSecurity BoulevardおよびAdaptive Securityの報道・分析による。日本の事案はCybernewsの報道による。本記事は情報提供を目的としたものであり、セキュリティ対策の助言ではない。
2026年8月14日の加筆について。 上記に加えて一次資料を追加した。加筆分の確認日はいずれも2026年8月14日である(出典は各段落に個別に明記した)。
集計ミスとcurlで確認した訂正
- 2026年8月14日: 「一次資料から3点引く」を「4点引く」に修正(実際にはFBI PSA I-091124-PSA・I-120324-PSA・香港警察・IPAの4件を提示していた)
- 2026年8月14日: 送金対策の引用リストから「複数人で承認する」を削除(IPA・FBI PSA×2・香港警察の4文書のいずれにも当該記述がないことをcurlで一次ページを取得し確認した)
- 2026年8月14日: 「ここは押さえておきたい点だ。」(情報量ゼロの接続句)を削除
- 2026年8月14日: BEC被害額全体の表記「$30.4億」を「$3,046,598,558(約$30.47億)」に修正(四捨五入の誤りで約700万ドル分ずれていた)。AI関連BEC損失も本文プロズの「over $30 million」ではなく、同報告書の表にある確定値「$30,256,592」を使い、比率を約1%から約0.99%に精緻化した
- 2026年8月14日: IC3 2025年報告書が「AI Related」を「初めて」別集計しているとした断定を、「2024年報告書には同項目が無い(2023年以前は未確認)」という当サイトで確認できた範囲の記述に修正
- 2026年8月14日: 「2024年比で26%増」が申告件数ではなく損失額の増加率であることを明記し、申告件数の増加率(約17.3%、859,532件→1,008,597件)を併記
- 2026年8月14日: 「否定したのはシステム侵害・情報漏えいの発生である」を、Arup声明の原文範囲(内部システムの侵害のみを否定)に収まるよう修正。声明は情報漏えいの有無に触れていない
- 2026年8月14日: IPAの記述からの当サイトの推論(Arupが「社内システムは侵害されていない」と言えたことと被害が防げなかったことの両立)について、推論であることを明示する言い方に変更
- 2026年8月14日: 出典・但し書き末尾の重複した出典再列挙(3文)を削除し、確認日の明記のみを残した
出典・参照資料
- 一次資料LCQ9: Combating frauds involving deepfake(香港特別行政区政府 保安局長 立法会書面答弁、2024年6月26日) ↗
- 一次資料Crime Statistics Comparison — 香港警務處 ↗
- 一次資料2025 Internet Crime Report — FBI IC3 ↗
- 一次資料2024 Internet Crime Report — FBI IC3 ↗
- 一次資料Business Email Compromise: The $55 Billion Scam(Alert Number I-091124-PSA)— FBI IC3 ↗
- 一次資料Criminals Use Generative Artificial Intelligence to Facilitate Financial Fraud(Alert Number I-120324-PSA)— FBI IC3 ↗
- 一次資料ビジネスメール詐欺の対策について知る — IPA 独立行政法人情報処理推進機構 ↗
- 二次資料Arup victim of multimillion deepfake scam — Construction Management(Arupの声明を引用) ↗
- 二次資料Arup falls victim to £20m deepfake video scam — The Architects' Journal(Arupの声明を引用) ↗
- 二次資料The $25 Million Deepfake: Why Your Video Calls Can No Longer Be Trusted — Security Boulevard ↗
- 二次資料Arup Deepfake Scam: How $25M Was Stolen via Video Call — Adaptive Security ↗
- 二次資料Japan arrests man for selling 500,000 AI porn deepfakes — Cybernews ↗
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